熊谷印刷株式会社

History
年史 ヒストリー

YEAR HISTORY

お客様の「もの創りパートナー」として、信頼を守り続けます。

熊谷印刷の創業は大正13年。関東大震災の翌年のことでした。東京が未曽有の震災に打ちひしがれながらも、力強く復興を遂げていく時代の潮流の中で、創業者熊谷敬一は築地の地にこの会社を立ち上げ、事業を拡大させていきました。以来、実に90年以上。太平洋戦争、戦後の混乱期、そして高度経済成長期という激動の時代の中を駆け抜けてまいりました。長い伝統を守りながらも、たゆまぬ技術研鑽を重ね、常に新しい印刷の在り方を模索し続けてきた当社の歩みを、豊富な資料と共にひもときます。

「水」の賛

水は高きから低きに向かって流れるが、環境によって、さまざまな流体を生ずる。 創設者「熊谷敬一氏」は世と共に流れながらも、自己の流れを妥当に導いてきた。 流れ自体の意思と努力の最善をつくしてきた。 また、苦難の度に己を磨き、人間としての温かみや潤いを増し、益々性格の良さを発揮してきた。

遺言に代えて

私は「熊谷印刷」創業以来30年のあいだ、本事業に全生命を打ち込んだ。私は私の精神は滅びないと信ずるので、私の企業精神を忘れず、人の和を失わないかぎり、社の発展と永続とを確信して疑わない。事業が個人経営の域を脱し得ないなら、個人の衰えによって動揺する危険を免れないが、しかし「熊谷印刷」は今や私一個のものではなく、そこには全社員の生活が深くその根をおろしている。したがって会社の盛衰は全社員の死活問題であることを思って、私は、責任の重大なることを痛感する。 ここに再生を記念して顧問諸氏と図り、私の後を継ぐ人々のために、私の志を体した会社の基本方針を定めて、役員一同の賛同を得、その協力実施を切望するのも、ひとえに「熊谷印刷」の永遠の繁栄を祈るからである。

【基本要綱】中の大眼目

  • 一.会社の経営は、役員総合の力を基幹となし、重要事項は役員会の審議を経て決定するものとす。

  • 二.審議にあたりては、各自十分に意見を開陳し、多数をもって決定するものとす。

  • 三.審議決定の上は、反対意見の者といえども、私的感情に囚わるることなく、決定方針に従って敢然尽力すべきこと。

  • 四.役員は、相互に信頼をもって和衷協力し、社運の興隆に精進すること。

  • 五.好況期にあたりても安易なる繁栄を望むことなく、常に着実堅固なる経営のもとに、社運の永盛を図るべきこと。

  • 六.役員は、常に行動を慎み、公正を期し、内は従業員の敬慕を聚むるとともに、外は得意先の信用を博すべきこと。

  • 七.役員は、業務に通暁し、常に指導的立場において業績と技術の向上に努力すること。

  • 八.従業員には規律と愛情とをもって臨み、共存共栄の精神培養を怠らざること。

  • 九.事業は人に存するをもって、心して人材を養成し、これを尊重すべきこと。

  • 十.会社の利益金は、可能なる範囲において、なるべく多額を従業員の福利施設に充当すること。

熊谷敬一語録

「校了の中から間違いを見つけたものには、金一封を出す!」
「品物を注文してくださるお得意さんの立場になって考えなければだめだ。
この品物は、最後にどう仕上げて、どんな目的で、なにに使われるものかということまで考えてやらなければいけない。」
「お得意さんにとって最小の経費で最大の効果の挙がるようなものを作らなければならぬ。」

東京印刷雑誌社発行「印刷雑誌 1931年(昭和6年)7月号」

A:1931年(昭和6年)7月号 表紙
B: 掲載広告*当時の日本ではC(シアン)M(マゼンタ)Y(イエロー)の3色版でのカラー印刷が
主流であったが、当時からBL(スミ)版の重要性に着目していた。
C: 暑中御伺い広告

前史

明治21年4月

(熊谷敬一氏が)宮城県本吉郡新月村に四人兄弟の末子として生まれる。

明治27年4月

6歳から小学校に通う(通常は7歳で入学)

明治34年3月

尋常科4年、補習科3年を修了
気仙沼の高等小学校の編入試験に合格。

明治35年3月

15歳で高等小学校卒業

明治37年 春

17歳から本格的に働く決心をする。
実家の農業の手伝いを始めるが、体も小さく仕事は半人前もできないため、当時、働き手として雇っていた人たちの、仕事の段取りの整備に注力し、自分の労働力の不足分を補おうと心掛けた。

明治39年 冬

19歳で結婚。

明治41年11月

徴兵で近衛兵に選抜され、上京し、12月1日に入営。

明治42年1月

恩賜金一封と精勤証を頂いて田安門を去る

明治44年7月

除隊後しばらく東京に留まるも、いやいやながら一旦帰郷

8月

妻の政子を連れて東京に戻り、兄のところで漢学講義録の事務の手伝いをしながら、
夫婦の東京生活が始まる

9月

東京神田の正則英語学校の夜学に入学

明治45年3月

父が亡くなり、兄と妊娠中の妻の二人が帰郷、
妻は郷里で男子を出産するも、月足らずで間もなく死亡。
更に妻とも離婚することに。一生の厄年・・・・・・・・

明治45年
(大正元年)

専修大学の別科へ入学するもどん底の窮乏のため、やめて無念の涙を飲む
兄の事業は悪くなる一方で日々の生活も困窮を極める・・・

大正2年1月

知人の紹介で「印刷世界社」に入社
あてがわれた事務のかたわら広告の勧誘をやり始め、
徐々に広告も取れ始め、歩合給も増えていく
知人の力添えのお蔭で専修大学に再入学。
あたかも自分の運命が、暗闇から光明に向かう機会を得たかのように、
住まいも、寂しい大塚から学生街の神田に進出。
広告取りの仕事も更にうまくいき出し、収入も増えていく

大正9年4月

(夢にまで見た)アメリカ渡航が実現。働き口も見つけ、
生活の場をアメリカに移す。
当初は10時間労働だったが、大正8年頃には8時間労働になった。

大正5年9月

身を粉にして働いてためた3千ドルをにぎりしめて帰国
即日、親友の妹と結婚式を挙げる

8月

北樺太(当時ロシアが軍事占領中)に鮭漁に出かけるが、
鮭は寄り付かず、大失敗で東京に戻る。

大正10年1月
 夏

株屋の外交員を経て友人が経営する印刷雑誌社に入社
印刷同業組合主催の印刷展覧会の記念号を製作し大きな利益を得る。

大正11年11月

経営者が半年間のアメリカ視察に旅立ち、
出版する「印刷雑誌」の編集作業から経営まで携わるようになる

大正12年9月1日

関東大震災

大正12年10月

大阪の各方面から多数の見舞広告を頂き、震災記念号を出版

後史

大正13年

東銀座木挽町に、熊谷敬一個人商店・熊谷印刷所を創業

大正14年

オフセット手差し四六半切機を導入

昭和3年 春

現在の新潟県高田市の中央電気会社から、創立二十周年記念 写真集(和綴じ)を受注。
誤植が発覚し一大事を迎えるも、咄嗟の機転により、修正後無事納品。最高の思いでとなる。

11月

得た利益で築地に地上権を入手し、後は借金で工場を建設。
四六全版オフセット機、研磨機、製版機を導入

アメリカの「排日移民法」、日本の「治安維持法」

昭和4年

暗黒の木曜日「世界大恐慌」始まる

昭和6年

四六全版機を増設

昭和7年

興銀より資金を借り入れ、工場の建築費を完済。

昭和9年

築地二丁目に百坪の建物を買い取り分工場をまとめる。

昭和10年11月

個人組織を資本金10万円で株式会社に組織変更

郷里の学校に「文庫」程度のものを作りたいと思い立ち、
在京の知人から千冊ほどの寄付を受け、学校に贈る。

昭和12年

日華事変

昭和13年

北京へ渡り印刷所を視察
売りに出た北京の店舗を買い取り、書籍の小売りの他、
写真材料の販売や現像・焼付の注文も取れるようにする。
写真部は、東洋乾板会社(富士フイルムの前身)と合資組織で開業する。

昭和14年

株式組織に改め、商号を「国華書籍株式会社」とする。
北京に印刷会社を作り、中国たばこの印刷の受注を目指すも、断念。
大陸進出の野望も空しく潰え去る。

昭和16年12月

太平洋戦争開戦

昭和17年

資本金を19万円に増資

昭和18年

写真製版部を増設
オフセットキク全版機を増設

昭和20年8月

終戦

昭和20年12月

生まれ故郷の宮城県本吉郡新月村に十万円を寄付。道路の改修費として使われることに。

昭和22年

太平洋戦争時、企業整備でやめた印刷所を買収し機械を増設。

昭和23年

資本金を200万円に増資

昭和24年6月

社名を株式会社熊谷印刷所から熊谷印刷株式会社に改める
株主総会の決算報告は年間総売上4000万円、利益380万円。

昭和25年

郷里の学校に小型ピアノを寄付

昭和26年 夏

軽い脳溢血に冒され、約二年間静養に努める。

昭和27年

資本金を400万円に増資。
オフセットは手差しから自動給紙の機械に更新。

5月

「血のメーデー事件」
このころ「プロレス」「ゴジラ映画」が話題・人気を集める。

各役員・顧問の署名捺印のうえ、会社の基本要綱が確定。

昭和28年3月14日

(熊谷敬一氏が)自叙伝「私の覚え書」を出版。

昭和29年

会社は、青少年の工員養成に尽力。
初代社長 熊谷敬一氏死去。遺言によって株が役員と従業員により譲渡され資本と経営が分離。
小企業では珍しい近代化組織になる。

「三種の神器」家電が売れ、「神武景気」始まる。

上田茂正氏が二代目社長に就任

昭和32年11月

本社ビル新築、落成。年間売上1億円の増収増益。

昭和35年

安保反対闘争で流血事件。労働組合運動の活発化。

昭和39年頃

「昔軍隊・今総評」で日本労働組合総評議会全盛

昭和40年

いざなぎ景気始まる。
ワープロ・写真植字の発達でオフセット印刷全盛期
一方、印刷価格の競争が激化。

昭和43年10月

新倉庫落成。紙工課初仕事。

昭和44年

B全二色機新台搬入

昭和45年

構造改善の一環として印刷機械を更新。新鋭機を新設。

昭和46年

帯かけ機導入
業界の構造改善認可フヂプロセッサー1000設置。
アイドルヒン2000設置。

昭和47年

菊全2色高速印刷機設置

昭和49年

第一次オイルショック。高度経済成長終焉。

昭和48年

火災報知器設置
三菱オフセット印刷機DAIYA-Ⅰ-2四六半切2色機設置。
新館落成。

昭和51年

廃液処理装置追加工事

昭和52年

新鋭菊全4色機三菱DAIYA-Ⅱ-4移設

昭和53年

三菱DAIYA-Ⅰ-4導入。(東京初公開)

昭和55年2月

1015mm高速度油圧自動締断裁機
クドエース900菊全版紙揃え機導入

5月

新6号機 菊全4色機DAIYA-Ⅲ-4ND導入
新3号機三菱DAIYA-Ⅰ-4搬入

平成元年~

DTP・デジタル化の推進。オンデマンド印刷機が登場。
印刷業界は、各社生き残りをかけての受注合戦の始まり。

平成3年

年間売上高20億円。最高値。
しかしながら、同業取引も増え、利益は減少傾向。

平成7年

創立70周年。5代目社長木下裕義氏

平成13年~

本社工場の老朽化により、工場移転を画策するも、頓挫。

平成19年

リーマンショック
構造不況は、特に印刷中小企業を苦しめ、ブラック企業と呼ばれて求人がさらに困難に。

平成23年

東日本大震災

平成26年~

新工場建設の必要性が切迫。

平成28年末

江東区潮見に本社新工場を建設。移転。

熊谷印刷株式会社は、大震災後に創業し、
また大震災後に再生いたしました

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